母を病院に連れていくのは、ひと仕事だった。
団地の二階から車にたどり着くまでに三十分。
バンの助手席に乗り込むのに十分。
それだけで、かなりの体力を使う。
母はアルツハイマーと診断されていた。
最初に相談した病院では、MRIを撮って薬が処方されただけだった。
それで何かが変わるようには思えなかった。
私は認知症についての本を読みあさり、別の病院でも受診した。
結局、月に一度、車で一時間ほどかかるクリニックに通うことになった。
月に一度と言っても、そこに辿り着くまでが大変なのだ。
団地の階段を降りるだけでも時間がかかる。
やっと車の前まで来ても、すんなり乗ってくれる日ばかりではない。
ちょっとお尻を押すだけで助手席に乗ってくれる日もあれば、
どうしても動かない日もある。
その日は、お尻に錘でもついているように、母は立ち上がろうとしなかった。気分が乗らないのか、体調が悪いのかは分からない。
予約の時間が迫ってくると、こっちも焦って声が大きくなる。
それに比例して、母の態度もどんどん固くなる。
なんとか車にたどり着いて、文字通り手取り足取り体勢を整え、
最後はあらん限りの力で体を持ち上げてシートに座らせる。
この時点で、もうほとんど体力を使い果たしている。
それでも、本番はこれからなのだ。
苦労してクリニックにたどり着き、
不機嫌な母を看護師さんと一緒になだめながら診察を受ける。
やっと終わった。
さあ帰ろう。
そう思ったところで、また母が車に乗らない。
今度は車椅子から立ち上がろうともしない。
無理に立たせようとすると、余計に抵抗が強くなる。
狭い駐車場でそんなことをしていると他の車の邪魔になるので、
少し離れた路上に車を停め、そこまで母を運んだ。
それでも状況は変わらない。
母がやっと車のドアの取手をつかんだのを見て、
私は車椅子から立たせた。
次の瞬間、母はお尻から吸い付くように座り込もうとした。
私は後ろから抱えたが、体重と座ろうとする力に勝てなかった。
私の方が、燃料切れだった。
仕方なく、母を地面に置いた。
すると母は、そのまま地面に寝そべってしまった。
目も口も閉じて、
もう動かないぞ、という感じだった。
もう無理。
ここに置いて帰ろかな。
……いやいやいや。
気がつくと、自分もその場に座り込んでいた。
しばらくぼーっとしていたのだと思う。
「どうしました?手伝いましょうか」
声が聞こえた。
顔を上げると、郵便配達の人がバイクを降りてこちらに歩いてきていた。
三十代か四十代くらいの人だったと思う。
その人は、母を軽々と抱き上げて車に乗せてくれた。
助かった。
ありがたかった。
申し訳なかった。
情けなかった。
その全部が、一度に来た。
私が何度も頭を下げている間に、その人はもうバイクに戻っていた。バイクまで走って。
